
創建 一二三六 年
拝 殿
(はいでん)









昭和十三年八戸産馬畜産組合奉納
1927年6月(株)八戸競馬倶楽部を組織し、三戸郡館村大字根城に1,600Mの八戸(根城)競馬場を建設。
1928年1月八戸産馬畜産組合がその競馬場の土地施設すべてを譲り受け、青森県産馬畜産組合連合会主催によりその後の競馬を開催したが、1939年の軍馬資源保護法公布により廃止となった。

帆船に「セ」というのぼり旗
漁船というよりは、「北前船(きたまえぶね)」に見えます。江戸時代中期から明治時代にかけて、北海道から大阪までを結ぶ日本海を主な航路としていた和船。物資を運ぶだけでなく、港で仕入れた商品を各地で売買する「買い積み(かいづみ)」で財を築き、「動く総合商社」とも呼ばれていました。

拝殿に保管されている七体の神楽
大祐神社の神楽は、例年7月の風鎮祭で行われます。この祭りは、風を鎮め、大漁と五穀豊穣を願うもので、舞などの奉納が行われます。大祐神社は、風鎮祭以外にも、地域の人々との関わりが深く、結婚式や七五三、厄払いなど、多岐にわたる行事が行われる湊町のシンボル的存在です。

陸軍大臣寺内正毅「戦利兵器奉納の記」
陸軍大臣「寺内正毅」の「戦利兵器」とは、日露戦争で日本が持ち帰った敵国の兵器を指し、戦利品として奉納された砲弾のことです。具体的には、寺内が陸軍大臣を務めていた頃の日露戦争で、兵士が持ち帰ったものが奉納され、その兵器が「戦利兵器」と呼ばれていました。
直会殿
(なおらいでん)


明治天皇御製 神宮祭主厚子謹書
「明治天皇御製 神 宮祭主厚子謹書」とは、明治天皇が詠まれた和歌に、神宮祭主を務めた久邇宮妃厚子内親王様が「謹んで書いた」という意味です。これは、明治天皇の御製(和歌)を、神宮の神職が正式に記した書物であることを示しています。

大祐神社「直会殿」床の間
「直会殿(なおらいでん)」とは、神社の神事の後に、神職や参列者が神前に供えたお酒やお供え物を共にいただく「直会(なおらい)」を行うための建物のことです。神事の締めくくりであり、神々と人が共に食事をすることで、神の力を分かち合い、日常の状態に戻る(「直る」)という意味合いがあります。

直会殿から拝殿に通じる廊下
直会殿から拝殿に通じる廊下です。「ご祈祷」の際の待合席や、「直会」の際の休憩席に、ご利用いただいています。窓越しからは「大祐明神岩」の巨岩を望むことができます。

大正ロマン漂う「直会殿舞台絵」
直会殿は着席約100名様収容の畳の座敷です。間口6間×奥行3間の舞台には、舞台袖を完備。様々な催し物にご利用いただいております。

直会殿から拝殿に通じる廊下
前述をご参照ください。
